感覚が研ぎ澄まされる、既に詰めきった間合い。後はどちらが先にテリトリーに進入するか、だった。軽く肌を打つ微風さえも、暴風に感じるほど神経は全身に張り巡らされていた。体力が擦り削られていく、会長はどうだろうか……
軽快にステップを踏む会長とは、スタンスが正反対だった。僕は喧嘩なんてしたことはない。友人とじゃれ合って殴り合いぐらいは、したことあるけれど、本気の喧嘩は初めてだ。会長は喧嘩慣れしている感じだった。予想は小から中ぐらいの打撃力のジャブ、フック、ストレート、ローキック、ミドルキック辺りを、ヒットアンドウェイで来そうだ。懐に入ることはかなり困難といえるか、しかし入らないと、僕がサンドバッグになるだけに思えた。そうすると、僕の負けは時間の問題といえた。
どうする。考えている間にも、ジリジリとすり足で会長のテリトリーに足が一歩踏み込んでいた。気付けば会長が僕に向かって、突っ込んできていた。
「ほれっ」
快音を響かせながら、僕の膝にローキックが当たった。そのあと、すぐに会長は身を引き間合いを取る。また会長が来る。
「ほれよっ」
快音。僕の腕にフックが当たる。すぐに間合いを――取る。
「ほれ」「ほれっ」「ほれ」
殴れば引き、引いてはツーステップで一気に射程距離に入り、快音を鳴らし去っていく。この繰り返しだ。案の定僕はサンドバッグに成り下がっていた。
しかし、五発六発と殴られていると、あることが分かった。会長攻撃は――思ったより打撃が軽い――しれていた。さすがに殴られ続けると僕はそのうちヤられるが、懐に入るのは簡単だ。殴られながら、機会を伺う。ここか……、ここか? と。
いいように僕の体に攻撃が入るものだから、すっかり会長は調子づいていた。殴る蹴るの連打。快音を放ち続けるサウンドマシーン的な僕。それでも良かった、殴り続けた先輩の最後の攻撃を待っていた。会長の殴り疲れか、キメだと思う場面、何かの要因――絶対何か大技を持ってくるはずだ。
――――そこに標準を合わせればいい。
「おい、何かして来いよ。桐生が心配しているぞ」
まるで蠅がたかるように、動き回っていた。食材は僕という訳だ。
「五月蠅いですよ会長。馬鹿の一つ覚えみたいに、ちょろちょろと」瞬時、会長の顔色が変化した。目じりがピクリと小痙攣を起こした。怒りを覚えたのか? 分からないが、何か神経に触れた。
そこかっ! 僕は身構える。会長は一旦距離を取った。一瞬の出来事だった。テリトリーから脱出した会長はワンステップ、トンッと跳ねた途端に飛翔した。
「おらぁ」会長の気合。
「ぬん」僕も気合を入れ構える。
左腕を上げ、上空から降ってくる会長の攻撃を受けるため準備。ジッと構えた。
ワンステップした直後、僕に向かって放物線を描くように会長は、浴びせ蹴りに出た。――コレが会長のキメ技。ぬるりと会長が迫ってくる。――腕に力が入る。
「はぁぁぁぁああああ」
血液が浮き上がり、静脈が青白く盛り上がっていく。来い、来い。神経がピリピリと弾け飛びそうだった。全身の毛細血管が引き千切られる感覚にとらわれる。「くはぁあ」脳から与えられるイメージが、既に可笑しい。会長に、捨てる気で差し伸べた腕の筋肉がブチブチと千切れる映像。グルグルと流れる。
何だ、何だこれは! 僕の右手が、やわらかな膜に覆われていく……次第に力が込み上げる。「あががががが」何もかもが必死だった。
「終わりだ、ガキ」
会長の声。見上げれば、宇宙《そら》に浮かぶ母――太陽――と一直線になった会長の踵が降り落されていた。逆光に覆われる会長に顔は、凄まじく決まっていた。格好良さが際立つ。――僕は会長にすら惹かれていた。脳が溶けそうだ。
――――ごりぃ……めり込んでいく踵。が、既に神経が麻痺していたのか、全く何も感じられなかった。スローモーションのように倒れこんでいく会長の身体から、母が笑顔を出した。すかさず、がら空きのボディーに向かって、右手の拳を放つ。
「そこまで!」
ノーガードの会長のどてっ腹に渾身のボディブローを抉り込む――しかし、手が動かない。動かなくなった。もうそこまできているのに……僕の拳が前に出ない。
「いいよ、もう。勝負あったから」
肩から砕けるように、会長はコンクリートに叩きつけられていく。僕は追い討ちをかけないと勝てない! 動け、動け! どうして動かないんだ。
「この手は、人を殴る為にあるんじゃないよ。優しい気持ちにさせる為にあるんだよ」
耳元で先輩の声が聞こえた。気が付くと、先輩は僕の拳を握っていた。え? 信じられないが、先輩の細く美しい手にも鮮やかなブルーが包み込んでいた。
「先輩……」
この群青にも似た、透き通る蒼が、僕をぐいぐいと引き付ける。そうして先輩に惹かれ、深みにはまっていくようだった。
「ほら、しゃんとして」そういわれ、僕は直立に立たされた。ポンポンと僕の両腕を叩きながら「勝負あったよ」と、先輩に頭を撫でられる。
そうして、うっすらと笑みを浮かべながら、「桐生でいいよ」と見つめられる。
「あっ、はい」
そうして、先輩はくるりと向きを変え、会長の元へ行く。直前に制止して、思い切り頭を下げた。「そういう事なので、会長すみません。失礼します」深々と頭を下げた先輩はゆっくり頭を上げて、僕に向かって駆けた。
「ほら、一応会長の顔立てないといけないよね、本当は初めから君だったんだよ」
と微笑んだ。思わず――
「ハイ、急ですが、僕から言わせてください。桐生先輩、中学の頃から好きでした!」
僕も思い切り頭を下げる。驚いたように額に指を当てる。そうして、僕の腕を取り歩き出した。さっき会長の踵を受けた左腕を擦りながら、僕の頬に手を置く。
「こっちの手は普通なんだから、無理をしちゃあ駄目よ。危うく折れるところだったよ」
「そうなんですか? 初めから捨てるつもりでしたから、いいんですけどね」
と苦笑した。
「惚れ直した、素敵だぞ君は。ちゅうしてやろう」と、先輩に抱きつかれた。僕は「いいですよ、こんな所で」恥かしいので断ったのに……
「誰も見ていないよ」と唇を奪われた。
腕を組みながら屋上の階段室につく頃、僕は唇を奪われて悔しいから「会長が見ていましたよ」と先輩に告げる。
またほほえみながら「馬鹿だなぁ、折角勝ったんだから見せつければいいんだよ」と言って、僕のお尻を叩いた。
後で聞いた話によると、膜が貼った拳で会長を殴っていたら、死んでしまっていたらしい。それを覚醒っていうらしい。あの――初めて先輩に手を握られた――時、遺伝子レベルで惹きつけられたらしい。焦って会長のしたことを考えると、男の僕は……少し胸が痛かった。